プロフィール

こんにちは。keikesuです。

ここでは私のプロフィール紹介をさせていただきます。

私は今、大手コンサルティングファームでクライアントのDXを推進するコンサルタント(DXコンサルタント)として働いていますので、そこに至るまでの過程をここで説明していきたいと思います。

生まれも育ちも岐阜県

私は1988年に岐阜県に生まれました。父は中卒の会社員(大型トラックドライバー)、母は短大卒のパートタイマーという家庭の長男です。4歳下と7歳下に2人の弟がいます。

両親は転勤などするような職業ではなかったため、結果的に大学の学部を卒業するまで、ずっと岐阜県岐阜市で育つことになりました。

教育熱心な母のもとで学校のお勉強を頑張った小中時代

私は幼少の頃から母より「学校の勉強を頑張って、いい大学を大学を卒業できればいい仕事に就ける」ということをひたすらに言われてきました。まあ、よくある話だと思います。子供の私にはあまりピンと来ていませんでしたが、今思えば両親は学歴が足枷となって職業の選択が制限されてしまうことを実体験していたので、そこから出た言葉なのだと思います。

私は5歳の頃からKUMONに通い始めて、母に言われるとおりに、勉強を頑張りました。当時の私にとって勉強は楽しいものではありませんでしたが、「勉強を頑張れば学校のテストでもよい成績が取れる」というちょっとした成功体験を味わっていたので、それほど苦も無く継続することができました。運動・工作・美術のどれも苦手だった私にとっては、このお勉強だけが唯一の取り柄でした。

学校の勉強ができたので周囲から「頭がいいんだね」と言われることもありましたが、正直自分では全くそうは思えませんでした。発想力もないし、機転も利かないし、自分の意見をはっきり持てるようなタイプでもなかったからです。子供ながらにクラスや委員会での活動を通して、「勉強はできるけど、イマイチ頭の良くない自分」みたいなものを自覚していくようになりました。ただ、その一方で、「自分は決して頭はよくないけれど、地道に努力すれば人並み以上になれる」ということを学業を通じて学んでいたので、その後の人生において「地道に時間をかけて習得する」という行為に楽しさを感じるようになったのはよかったと思っています。

余談が多くなりましたが、勉強を頑張った私は結果として岐阜県で一番の進学校である岐阜高校に通うことになりました。教育熱心な母が私の合格発表を見て涙ながらに喜んでいたのは、今でも鮮明に記憶に残っています。

部活に明け暮れた高校時代(岐阜高校)

岐阜県で一番の進学校に入ったのだから引き続き勉強を頑張るのかと思いきや、私の高校生活は思いもよらない方向へと進んでいきました。

入学して間もない頃、私はどの部活動に入ろうかと考えていました。中学時代にはバレーボール部だったので、高校でもそのままバレーボール部を継続するか、またはもう少し活動の少なそうな文化系の部活動にしようか悩んでいる時に「音楽部」と出会いました。音楽部は合唱コンクールへの参加・様々な施設への訪問演奏・定期演奏会の開催を主な活動としており、たまたま誘われていった部活見学ではとても和気あいあいとしている雰囲気の部活でした。私は本気で合唱をやった経験は全くありませんでしたが、「雰囲気も楽しそうだし、文化系の部活ならそんなにきついことはないだろう」と軽い気持ちで入部を決めました。

ところが実際に入部をしてみると、かなりガチな部活であることが分かりました。入部後に知ったのですが、全国大会で金賞を取るような部だったので、文化系と言えど、練習時間も長く、顧問もスパルタでした(毎日のように猛烈な怒号が飛び交うし、ひどい時にはモノが飛んでくることもありました・・・)。そんな調子なので、面倒くさくなったり、心がくじけそうになったことは幾度となくありましたが、それでも周囲に頑張っている仲間がいたことや自分自身の逃げ出したくないという思いから何とか3年間継続することができました。入部当初30名近くいた同級生は結局私含め7人しか残りませんでしたが、この部活を最後までやり遂げられたことは今でも本当によかったと思っています。また、私は決して歌がうまいわけではありませんでしたが、在籍中に全国1位及び岐阜県民栄誉賞を受賞できたことはとても良い思い出になりました。

全国大会優勝演奏

顧問に対しては理不尽に感じることもありましたが、今振り返ってみれば、周囲からの圧力(敵も多かったので)に全くめげず、目標に向かって妥協せず一直線に突き進める姿勢には少し見習いたいなと思うところがあります。

高校生活と言えば部活のことしか記憶にないくらいに濃密な3年間でしたが、一方で学業の方は少し疎かになっていたため、残念ながら浪人することになりました。

進路を決めた浪人時代(河合塾)

高校3年間は部活が忙しかったこともあり、塾には通っていませんでしたが、浪人時代は学業に集中できそうだったので河合塾へ通うことにしました。

一流の講師に教えをいただいたこともあるでしょうが、きっちり時間を取って予習・復習をやることで、成績は着実に伸びていったので、改めて「地道にコツコツ努力を積み重ねること」の大切さを噛みしめました。まあ、高校時代は明らかに勉強量が足りていませんでしたね。

私は理系科目への興味が強かったこと、また両親から近場の国立大学(仕送りが経済的に厳しいため)と言われていたことから、名古屋大学理学部への進学を希望していました。現役時代には模試でよくてB判定でしたが、浪人時代には志望者の中で1桁台の順位を取れるくらいまで学力が伸びていたので、合否についてはあまり心配はありませんでした。ただ、理学部へ行って一体何をやるのかが私の中でまだ見えていませんでした。

何となく化学が得意だったので、化学科にでも行こうかなくらいの気持ちでいたところ、たまたま『相対性理論と量子論』(佐藤勝彦 著)に出会いました。当時は相対性理論など名前くらいしか聞いたことがなかったので、なぜその本を手に取ったのかは今でも分かりませんが、一般向けの平易な書物だったので試しに購入をしました。紐解いて読んでみると、日常感覚からは想像しがたいような物理現象の数々が大変興味深く説明されており、私は一夜にして物理学専攻に進むことを決意しました。

物理学を極めたかった学部時代(名大理学部)

私は、自分の好きなことをゆっくり学べる期間は人生でそれほど多くないだろうと思っていたので、大学入学後は多くの時間を学業に充てていました。先輩たちがやっている輪講セミナーにも積極的に参加し、年に1~2回は泊まり込みのセミナー合宿にも行っていました。大学以前は1人で勉強することが多かったですが、セミナーを通して、皆で議論しながら学びあうことの大切さも実感しました。

特に感動的だったのは量子力学で、浪人時代に読んだ『相対性理論と量子論』(佐藤勝彦 著)に書いてあったことの真の意味が徐々に自分の中で解き明かされていくのは心の底から楽しく感じました。

私の在学中だった2008年に名古屋大学理学部物理学科の大先輩にあたる益川敏英氏と小林誠氏が素粒子分野の研究でノーベル物理学賞を受賞されました。それに刺激を受けた私はさらに物理学への意欲を燃やし、4年生になった時には素粒子宇宙論の研究室に所属していました。

いろんな初めてを経験した修士時代(東大物理)

私は当初名古屋大学の大学院に進学するつもりでいましたが、先輩方が他大学の大学院に進学されるのを見て、そういった選択肢もあるのだということに気がつきました。私が所属している研究室は素粒子宇宙論の理論研究をしていましたが、進路を考える中で私は同分野の実験をやってみたいと思うようになりました。理論は理論で楽しかったのですが、実験装置を使って実際に粒子を観測することもしてみたかったんですね。

そんな思いで進学先を検討していた矢先に見つけたのが東京大学の神岡宇宙素粒子研究施設でちょうど始まったXMASS実験でした。未知の素粒子であるダークマターを探索するための実験だったので、私のやりたいこととぴったり一致していました。私は両親を説得して、東京大学の大学院入試を受験し、何とか東京大学大学院に進学できることになりました。

私は柏キャンパスの所属となったので、千葉県柏市に住み始めました。私にとっては実家を出て初めての1人暮らしとなりました。しかし、研究施設は岐阜県飛騨市にあったため、ほとんどの場合は研究施設付属の宿泊施設で他の学生や研究者と生活を共にしていました。

実際に研究を始めてみると、物理学の同じ分野とはいえ、理論と実験ではやることが全然違っていました。例えば、実験データの本格的な解析を行なうためには、プログラミングが必要ですが、私はそれまで全くと言っていいほどその経験がなく、当初は大変苦労しました。OSがLinuxだったことも私の苦労に拍車をかけました。始めはまさに「なんだ、この真っ暗な画面は・・・」って状態でしたね。

また、神岡の研究施設は外国人がとても多く在籍しているのも特徴でした。日本に住んでいる人もいれば、出張で一時的に滞在している人もいました。私はそれまで実践的に英語を話したことはなかったので、とても不安でしたが、勇気を出して話してみると意外に通じて、英語で外国の方々と交流するのがとても楽しくなりました。これが後々の私の英語学習の原点ともいえる経験でした。

ちなみにドイツ人の妻と出会ったのも修士時代でした。私は英会話練習のためにFacebookで大量に外国人とつながっていましたが、妻はその中の1人でした。妻に会うために初めてのヨーロッパ旅行も経験しましたし、妻が人生で初めての彼女でした。

製品開発のいろはを学んだ1社目(電気計測器メーカー)

私は新卒就職で長野県での電気計測機器メーカーに就職をしました。これまで物理学専攻で、電気の知識があまりなかったため不安も多くありましたが、会社の自由闊達な雰囲気に惹かれて入社を決めました。

電気計測機器メーカーではあったのですが、私が担当したのは光学測定器でした。まだまだ自社が弱い分野だったので既存製品もそれほどなく、市場調査から始めるような状況でした。そのおかげもあって、市場調査・製品開発・生産立上・販売促進と様々なフェーズを経験させていただくことができました。

特にIECのメンバーとなって国際規格の策定に参加し、自社の測定技術をその一部に盛り込むことができたのは非常に印象的でした。

また外郭団体での活動も多く、社外の方々とも頻繁に交流していました。日頃からよい人間関係を築いておくと、いざという時に助けていただいたり、思わぬ機会が巡ってきたりすることもあったため、人脈形成の大切さも学ぶことができました。

英語学習に明け暮れる

私は大学院時代に英語を使う機会があり、その際に英語でのコミュニケーションの楽しさを実感したので、さらに英語力を伸ばしたいと考えていました。

オンライン英会話を始め、たまたま出会った先生が大人になってから日本国内で英語を死ぬ気で勉強して通訳になった方でした。それを見た私は「自分も努力次第でもっともっと英語を使いこなせるようになる」と確信したため、平日・休日関係なく、自由時間の多くを英語学習に費やすようになりました。

英語学習を本格的に始めてから数年ほどかかりましたが、結果的にはTOEIC990点・英検1級・工業英検1級(現在の技術英検プロフェッショナル)を取得することができました。また、資格試験のみならず、外国人講師とのオンライン英会話も600レッスン以上こなして実践的な英会話力の向上にも努めました。

英語力が身についたことで、仕事においても国際学会発表や海外顧客訪問など多くの海外経験の機会をいただくことができました。

そして国際結婚へ

私は大学院時代に出会ったドイツ人の女性と遠距離での関係を5年半ほど続たのち、同棲を始めました。向こうが仕事を退職して日本に来てくれたのです。同棲期間中は一緒に住むと同時に日本語学校に通うことにしたので、留学ビザで日本に滞在していました。そして、半年ほどの同棲を経て結婚することになりました。

日本人ならば役所に婚姻届けを出して終わりですが、国際結婚となるとそうはいきませんでした。結婚するのにもそもそも書類がたくさん必要(ドイツ側から取り寄せるものもある)ですし、それ以上にその後のビザ更新が大変でした。

妻は日本の会社で働いているので、日本語がある程度できるのですが、出会った時からの名残で未だに夫婦間の会話は英語がほとんどです。英語なんて大変だなと思われる方もいるかもしれませんが、慣れてしまえばそれほどでもなく、今ではコミュニケーションに困ることもほぼなくなりました。2022年現在で結婚して5年ほどになりますが、楽しくやっています。

始めて会った時にはまさか国際結婚まですることになるとは正直思ってもいませんでした。

IOTの素養を身につけた2社目(SIler)

私は1社目のメーカーに待遇的な不満は全くありませんでしたが、やはり成長著しいITの分野に携わってみたいと思い、転職を決意しました。これまで製造業で培ってきた知識も生かせればと考え、工場向けIOTシステム開発で強みを持つベンチャー企業で働き始めました。

人数の少ない会社であったため大変なことも多々ありましたが、その分1人1人の担当領域が広く、インフラを含むWEBアプリやIOTセンサの開発を非常に幅広く経験することができました。エンジニア採用でしたが、実際に現場に入ってセンサを取り付けたり、無線センサの電波状況をチェックしたりということもやる機会があり、IOTの素養を吸収することができたと感じています。

また、いい意味で期待と違っていたのが工場以外のIOTもやれたことでした。レストラン・病院・スーパー・スポーツジムなど様々な顧客に対してIOTシステムの導入を経験させていただき、とても視野が広がりました。

DXコンサルタントとして新キャリアをスタート

IOTシステム開発は非常に楽しかったのですが、システム開発の上流から下流まで幅広く経験したい、また海外の案件にも携わりたいとの思いから2度目の転職を決めました。

現在は(日系ではありますが)海外案件の豊富な大手コンサルティングファームに勤めています。システム開発の上流工程を担当することが多くなりましたが、実装やテストを主とする下流工程との違いを実感しています。特に要件などがあまり決まっていない段階においては、いかにロジカルに論理を組み立ててステークホルダーの納得を得ながら1つずつ決めていくかというところが強く問われます。過去の仕事と違うため負荷は正直大きいですが、少しづつでもこなせるようになっており、僅かでも自分の成長を感じられるようになってきました。

最後に

長くなってしまいましたが、私のこれまで経歴をざっと記述させていただきました。

一言でまとめると、私は製造業とIT(IOT)のハイブリッド人間なので、この分野で価値を高めていきたいと思っています。

このブログを通して自分自身の知識や考えを発信し、よい仲間や仕事に巡る会える機会を増やしたいと思っています。

是非気軽にご連絡をいただけると嬉しいです。